神田川舟めぐり

2012.8.11
今回で水の都大江戸クルーズは5コース目です。
今日は日本橋→隅田川→神田川→日本橋川と回ってきます。

猛暑です。
しかし、天気予報ではところにより雷雨とのこと。
日本橋三越の入り口にある水槽で泳ぐ金魚 
三越入り口から眺める日本橋 
   


スタートは、いつもの日本橋船着場 
 本日のガイドさんと船長さん
約2時間の船旅です。
   
 

前回の「水の都東京運河探検クルーズ」では
解体現場が見えていた、
三菱倉庫本社「江戸橋倉庫ビル」
今は、以前のビルの姿を描いたシートで
覆われていました。
 真ん中あたりのある2つの黒い扉
昔はここから水運で運ばれてきた荷を
運び入れていたそうです。
   
 

いつもと同じ日本橋川を下って行きます。
鎧橋
名前の謂れはいくつかあるらしいですが、
源義家が奥州往きの途中に暴風に出会い川に
鎧を沈めると風が収まり川を渡れた
とも言われています。ただし当時は橋ではなく
渡しでした。
向こうに見えてきたのは、おなじみ
「湊橋」 
江戸時代からこの場所にかけられていました。
   
 

このビルにも黒い扉が残っています。
ここから荷物を船に出し入れした名残ですね。


 豊海橋
ここを過ぎると隅田川
豊海橋は話題の「お江戸日本橋舟めぐり」
で、紹介しています。
   
 
隅田川に出ました。今日は風がないので
波は穏やかでした。
清洲橋と雲に隠れているスカイツリー


 このマンション
TVドラマの「男女七人夏物語」で
大竹しのぶの住まいとして
設定されていたマンションです。
   



 明治座
両国橋 
   


総武線 
   
 


緑色の柳橋から、初めて入る「神田川」です。
 今ではもう数隻しか残っていない
木造作りの屋形船
昭和55年に進水して今も現役
   
 浅草橋です。
江戸時代初期からかかっている橋で奥州街道に通じる重要な橋でした。
江戸城外郭門「浅草口」の跡地で、枡形櫓が造営され、
浅草見附として番士がありました。。 
   


浅草が隣ということで、本当の屋形船の多いこと 
   


左衛門橋 震災復興事業で出来た橋ですが、その前も有料の個人所有の橋があったそうです。
橋の北詰に鶴岡藩(通称 庄内藩)の酒井左衛門尉(さかいさえもんのじょう)の下屋敷があり、
この一帯は左衛門河岸(さえもんがし)と呼ばれていました。
   
 

神田川の歌を思い出します。
♪あなたは、もう忘れたかしら♪


 美倉橋
橋が架けられたのは江戸時代の前半で、
当時は 『柳原新し橋』 と呼ばれていたらしいですが、
橋の近辺に三つの米倉があったことから
『三倉橋』 と呼ばれ、それが転じて 『美倉橋』
   


和泉橋
国道4号線(昭和通り)が渡る橋で地下には地下鉄日比谷線が通っています。
   
 
神田ふれあい橋
東北・上越両新幹線の工事に伴う工事用の橋が、
地元の要望でそのまま一般開放された人専用橋。
   
 長禄2年(1458)、太田道灌が
江戸城の鬼門除けとして
数多くの柳の木を植えた際に江戸の
鎮守として祀られたものです。
 ふれあい橋に隣接してJRの架橋が架かっています。
   


万世橋です。
東京の中でもメインストリートの中央通りが渡る橋で、
秋葉原に行けば必ず渡ります。
   
 

御茶ノ水駅が近づいてきました。
いつも総武線の車窓から見えている風景の中から
逆に眺めています。


旧・万世橋駅の高架駅舎の赤レンガが続いて、
その終点にあるのがこの昌平橋です。
室町時代にはすでに「芋洗い橋」の名前の
橋が架かっていました。
昌平橋の名付け親は「徳川綱吉」
   
 

近くで見上げる昌平橋

 昌平橋を過ぎるとすぐに、総武線が川の上を
ななめ横断しています。
この場所も電車からよく見る風景です。
   
 

真下から見上げた総武線


 聖橋です。手前に見えているコンクリートの
橋のように見えるのは、地下鉄丸ノ内線が
一瞬地上に出て神田川を横断する鉄道橋です。
昭和3年に架橋されたこの橋の名前は、一般公募によるもので、
北側の湯島聖堂と南側のニコライ堂という
二つの聖堂を結ぶことにちなんでいます。
   
 

聖橋から見えてきたのは御茶ノ水橋


 撮影ポイントが、どんどんやって来て
いったいこの写真はなんだったのか?
思い出せません。
   


 後ろを振り向いて撮影した聖橋
上の黒い部分は、地下鉄丸ノ内線が
神田川を横断している橋です。
 神田川を挟んでこちら側は文京区
   


御茶ノ水駅が近づいてきました。 
   


何度も通ったことのある御茶ノ水橋です。 
   
 

橋から、誰かが僕たちの乗っている船を
珍しそうに見下ろしていました。
 御茶ノ水橋の下はこうなっていたんだ。
   
 

橋を越えると、順天堂大学病院が見えてきました。
 右岸はツタが護岸を包んでいます。
   


進みむにつれ、森のようになってきました。 
   


なんかトンネルのような不気味なスペースが・・・ 
後で調べたところ、お茶の水分水路呑口で、
お茶の水分水路吐口(出口)は昌平橋と万世橋の間にありました。
   


やがて、水道橋までやって来ました。
交通量は多く、橋の幅も三十メートルを超える広さがあります。
欄干のデザインは水の流れをモチーフ
名前の由来は、江戸時代に作られた神田上水の架桶(水路橋)に由来し、
現在の水道橋よりも下流に存在していたらしいです。
   


こうらく橋です。
 震災復興橋の一つとして、昭和2年に架橋された橋です。
東京ドームへ行く人は、その隣にかけられている歩行者専用の橋を渡ってます。
   
 

小石川橋が見えていますが
  神田川とはここでお別れ
左側に分岐し、しんみさき橋をくぐって
  日本橋川に進んでいきます。
   


日本橋川の上には高速道路が覆っています。
一日中日が当たらないため、光合成が出来ず川の水質浄化にも良くありません。 
   
 

あいあい橋です。
平成13年(2001) 12月に完成した新しい橋です。


 新川橋
このあたりの川は江戸時代には埋め立てられており、
橋が架けられたのは、明治36年 の
日本橋川再開削の後と考えらています。
   


 堀留橋です。
江戸時代、「神田川」 の開削工事が完了すると、
現在の 「日本橋川」 は三崎町の分流地点から、
この 『堀留橋』 付近まで完全に埋め立てられて、
いわゆる 「堀留」 になっていたことから
名前が付けられています。
 南堀留橋です。
江戸城の 「外濠」 は、この辺りで 「堀留」 となっていました
日本橋川 が現在のように 神田川 と接続されたのは、
明治36年(1903) のことで、この橋は震災復興橋です。
   


まな板橋です。
俎板と書きます。
江戸時代から 「まな板」 を渡しただけの橋があったことから、
『俎橋』 と呼ばれるようになったとか・・・・ 
   


川の周囲には、多くの大学があります。 
   
 

きじ橋です。
江戸幕府を訪れた要人をもてなすため
各地から集めたキジを飼うための小屋の
隣にあった橋をそう呼んだらしいです。
 一ツ橋です。
内堀川に架かる見附橋です。徳川家康が
江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本
架けられていてこの名になったそうです。
   


一ツ橋の周囲の護岸には江戸時代に築かれた
石積みが残っています。
石には、築造した大名の刻印を見ることができます。 
   
 一ツ橋の両サイドは
石作りの橋です。


護岸の向こう側は、気象庁の敷地です。 
   
 

神田橋
首都東京の重要路線である中央通りが通っています。
江戸時代には 「神田橋御門」 の 見附橋 であったが、
徳川幕府の開幕以前から架かっていたらしいで寸。
鎌倉橋
家康が江戸を開拓した時に、鎌倉から送ってくる荷を
このあたりの河岸で荷揚げしたことから
鎌倉橋と言われています。 
   
 

東京駅のある方向です。
 東京駅と神田駅を結ぶJR線
   
 

この鉄道橋に旧国鉄のマークを見ることができます。 
向こうに見える緑色の橋は新常盤橋です。
   


常盤橋は3つあります。
その中で唯一石作りの橋がこの常磐橋です。
「盤」と「磐」の違いがあります。
   


日本橋川には、非常に多くの橋が架かっています。
そのため、全部の橋は紹介しきれません。
西河岸橋です。橋脚は煉瓦積みです。
ちなみにこれはイギリス積み、ほかにもフランス積みとかドイツ積みなどがあります。
   


 日本橋に戻ってきました。
心配した雨もほとんど降られることもなく
順調な舟めぐりでした。


本日乗船した船です。 
   
 

日本橋には太平洋戦争の時に落ちた
焼夷弾で焼け焦げた跡が残っています。
 日本橋に立っている
道路原標地点
   


キリンシティ、キリンビールの経営するビアホールで昼食をとりました。 
   
料理も美味しいし 
   
   
ビールは特に美味しいですよ。 
   
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