2018年1月2日
今年は、七福神ではなくて「七稲荷めぐり」です。 一か所弁財天が加わっているので8か所、また途中に羽田神社に詣でる予定です。 スタートは京浜急行の糀谷駅 |
||
最初にやってきたのは、萩中神社です。 正式には「東官守稲荷神社」というか、大正6年に風水害により被害を受け 荻中神社の中に東官守稲荷神社が再建されています。 |
||
この鳥居に奥にある小さな祠が東官守稲荷神社です。 羽田地区の、ほとんどが松の正月飾り |
||
二か所目は、「妙法稲荷神社」です。 |
||
1801年の大洪水の被害から立ち直るために京都伏見稲荷から、分霊をしたものです。 |
||
稲荷神社といえば。狛犬ですね。 子犬と火焔の狛犬でした。 右の写真のように登り旗で順路が示されています。 |
||
六郷用水 |
||
重幸稲荷神社へ向かう途中で見つけた看板 後で、調べてみたのですが、六郷用水は徳川家康が 作らせた農業用かんがい用水です。 いまは市民の憩いの場所として、 散策やジョギングなどの生活インフラとして、 活用されているそうです。 |
||
重幸稲荷神社に到着 祠だけの神社でが、五穀豊穣を祈って建てられたものです。 |
||
四番目は、高山稲荷神社です。 昭和4年に六郷土堤改修工事の際にこの地に移転 移転前の神社が飛騨高山の大工が建てたことから「高山稲荷神社」という名がついています。 |
||
ここの狛犬は巻物と玉を咥えていました。 |
||
色紙の他、唐辛子が凝っているご朱印帳にも朱印をもらって廻っています。 少し横道に逸れて古道羽田街道(昔、六郷の渡しから川崎大師まで続く参道) 現在の産業道路へ |
||
稲荷神社めぐりとは違いますが、予定していた羽田神社に詣でました。 |
||
境内には富士塚がありました。現在は落石?の危険があり登山禁止。 |
||
羽田神社のおみこしです。 例大祭はとても、賑やかです。右の写真は神輿というより輿ですか?使っていないみたいでした。 |
なんと、羽田稲荷神社が建っていました。 |
|
ここからは、ブラタモリ??。 羽田の渡しの碑を見つけました。 羽田と川崎との間の渡しは、川崎大師参詣の要路でした。羽田の渡しは、「六左衛門の渡し」とも呼ばれ、昭和14年(1939年)に大師橋が開通するまで利用されていたそうです。 |
||
その羽田の渡しが必要となくなった大師橋も今はその跡が残るだけ。 今は、新しく架かった新大師橋となっています。 遠くに羽田飛行場に着陸する飛行機が見えています。 |
||
五番目の稲神社である「鴎稲荷神社」に到着 石の鳥居に弘化2年と記されていることから、相当歴史のあることが分かります。 ブラタモリの羽田編にも登場した、この神社の参道は鎌倉時代のものと江戸時代のものが交差しています。 |
||
鴎が襲来すると大漁であったということからカモメ神社ト呼ばれるようになったとのこと。 右の写真は、赤レンガ、これもブラタモリに登場しています。 昔の防波堤です。今はもっと海側に高い防波堤ができて必要はなくなっていますが、街道沿いに残っています。 |
||
多摩川弁財天に着きました。 江戸名所図にもあり、羽田村の南の先にあり、常夜灯があり舟の目印になっていたそうです。 |
||
弁天様のお顔が見えますか? もう羽田空港は目の前です。 |
||
海老川沿いを進み弁天橋を渡れば羽田空港です。 今回は橋は渡らずに白魚稲荷神社に向かいます。 赤い鳥居は最後に訪れる穴守神社の大鳥居です。これは都市伝説があり動かすことができません。 |
||
七番目となる白魚稲荷神社です。 火伏せの神様として信仰があります。大戦でも戦火を逃れています。 |
||
途中にあった、銭湯 |
最後となる穴守稲荷神社です。 | |
穴守稲荷神社の創建は、江戸文化元年(1804年)頃と伝えられています。村の堤防が決壊したとき、村人が堤防に稲荷神社を祀って水害を治めたというご神徳にちなんで、 堤防に穴が開いても村を護るという意味で『穴守稲荷神社』と呼ばれるようになったのだそうです。 |
||
奥之宮、京都の伏見稲荷の様な鳥居が続きます。 人を化かして村人に捕らわれた狐を老人が助け、命を救われたきつねが恩返しをしたという言い伝えが残る穴守稲荷神社。 狐が置いて行った湿った砂を老人が庭に撒くと、来客が途切れることがなくなり、大きな富を得たそうです。 ちゃんと頂いてきました。 |
||
奥之宮の左裏側に御岳神社の築山があり、多くの稲荷小祠がありました。 |
||
帰りは京浜急行 穴守稲荷駅から 各稲荷神社で頂いたお土産 |
||
色紙です。 |
||
ホームへ |