伊那高遠・木曽路の旅

「夜明け前」 島崎藤村
「木曽路は全て山の中・・・」

2007.5.2〜4

2日の朝3時半電池式定時轟音発生装置付き時計の音で、強制的に目を覚まして、
この旅は始まったのでした。


飯田・伊那・高遠

まず、最初に長野県飯田市にある、「伊那谷道中」
という場所。
ここは、数週間前にテレビの「王様のブランチ」で
長野県初のテーマパークと言うことで紹介されたの
です。


伊那民族資料館です。
まぁ、こんなんもありました。「イナジョー」
シルク館では、ステンシルでコースターを作りました。
唐辛子は、柿、僕は葡萄です。
天気予報では、曇りだったのですが、たまに雨が
落ちてくる天気。

伊那と言えば、「ソースカツ丼」と「ロー麺」です。
なかなか店が見つからなかったのですが、
路地を入ったところに、「来々軒」を発見。
市内には数十件のロー麺加盟店が有ることが
分かりました。

ちなみにロー麺というのは、太めのソース焼きそば
ソースカツ丼は、カリッとしたカツにソースたっぷりの
丼です。
ロー麺です。 ソースカツ丼です。
お腹も満足したところで、高遠城跡へ向かいました。
今年の大河ドラマ「風林火山」でも高遠頼継の居城
として出てきました。
山本勘助により改築され、武田信玄の五男仁科盛信
が城主となりますが
織田信長により滅ばされました。
高遠といえば、桜です。
もう少し早ければ、一面桜の花で覆い尽くされていた
はずです。

この門は大手門です。


左が、今回大手門手前の橋から見た風景です。右が桜が咲いているとき、橋を見上げている風景です。

こういうものを見つけると、どうしても使ってみたくなります。
僕たちが写真を撮っているのを見て、他の人たちも撮り始めていました。
高遠城公園から少し歩くと、江戸時代の大奥で有名な
「絵島」の囲屋敷があります。

将軍家継の時代。当時、大変権力を誇っていた絵島ですが、
山村座の人気役者・生島新五郎の芝居を見にいったところ、
大奥の門限に間に合わず、絵島は処分を受けることになり
ます。
当時の大奥では、前将軍家宣の正室・天英院を中心とする
勢力と絵島が仕える将軍の生母・月光院を中心とする勢力が
あったといいます。それが引き金となって、ゆるんでいた大奥
の規律を取り締まる意味もあって、数々の人間が処分された
のだそうです。山村座
は廃絶、、生島は三宅島への遠流。
そして、絵島は死罪であったところ、信州・高遠藩内藤家の
お預けとなりました。

絵島は亡くなるまで、ここで約30年住みました。
その生活は厳しく、外出はもちろん、生活の中にも多くの決まりごとがありました。
下の条書がその内容の一部です。

窓から逃げられないように、羽目殺しの格子です。塀にも越えられないように細工がされてあります。
僕の高校時代の友人が伊那に住んでいます。
もう千葉に住んでいるよりも伊那に住んでいる期間の方が
長くなったそうです。

家に寄らせてもらい、皆で一緒に夕食を食べました。
これは彼の愛車「アルファロメオ」です。


窓から南アルプスが一望できる素敵なお家です。

伊那プリンスホテルに宿泊し、木曽路へ向かう途中で見えた南アルプスと中央アルプスです。
初の予定では、中央高速で中津川ICそこから、
木曽路というコースを考えていたのですが、友人が
権兵衛トンネルが開通してこれを使うと時間短縮に
なると教えてくれました。
これが、権兵衛トンネルの入り口です。

4470mもあります。

奈良井宿
トンネルを抜けると、宿場町であった。
ここは、中山道(中仙道)の奈良井宿。
日本橋から数えて34次目の宿です。
宿の入り口には、幕府のおふれや、
宿の値段などを示した高札場が立っています。
奈良井宿の特徴の一つは、こうした水場が何ヶ所もある
ところです。
この漆器屋さんで、僕の木曽漆器のおわんと、
山椒のすりこ木と、ケーキ等に使う
楊枝を買いました。
この楊枝は
箸職人が、冬場の暇な時期に作ったもので
この時期にしか出回らない物です。
ここは、天保の櫛商人である、中村屋利兵衛の屋敷です。
当時は、間口の柱までも取り外し可能で、お土産用の櫛を
売っていたそうです。

奈良井宿で一番最初に、保存に取り組んだ屋敷です。
2階に上がって、鎧庇(よろいひさし)を見ています。
釣り金で簡単に外れる程度に止めてあります。
これは、泥棒がひさしに登ってもすぐに外れてしまうように
してあるからです。
鎧庇を下から見上げています。
この季節は奈良井宿にツバメが巣を作ります。
中村屋さんにもいくつも巣が出来上がっていました。
格子のところにツバメがとまっています。
何十匹というツバメが、奈良井宿の中を
飛びまくっていました。
続いて訪れたのは、上問屋資料館です。
幕府の役人や諸大名やその他の旅行者用として
一定の馬と人足を備えていました。
それを管理していたのが問屋です。
どこも、台所は玄関から2つ目の部屋になっていました。
明治天皇が、奈良井宿を訪れた時、
この部屋に泊まったそうです。
宿にある建物は玄関を入ると、
土間が裏庭まで続いています。

ここは、伊勢屋さんです。


奈良井宿の町並みです。
上町と中町との境にある水場です。
奈良井宿の外れに、道の駅木曽の大橋が
奈良井川に架かっています。
杉の森酒造には、大きな杉玉が吊るしてありました。


昼食は、島崎藤村も食べに来たと言う「徳利屋」さんです。
囲炉裏に火が入っていてすごくいい感じです。
これは、五平餅です。
ゴマ味噌と胡桃味噌と蕗味噌の三種類
ランチはこれら全てで1680円とはお得です。
囲炉裏の煙で、煤が付いて柱は黒光りしていました。

福島関所

国道19号線で木曽福島宿へ向かっている
途中で、道の駅に寄りました。

中央アルプスがとても雄大でした。
福島関所は東海道の箱根と新居、中山道の碓氷と並んで
江戸時代の4大関所の1つに数えられていた。
慶長年間(1596〜1615)の創設といわれ、福島宿のはずれの
東は山、西は木曽川の断崖に挑む要害の地に関所が
設けられていました。女人と鉄砲を主に改めていたそうです。
関所破りなどを捕らえるための、
いろいろな道具が立てかけてあります。
上番所 ここで取調べをしていたのでしょう。

基本的に、代官は関所破りなど重罪を犯したものの
裁きはできなかったそうです。
決裁権が無かったのですね。
そのため、犯罪の内容等を知らせ処分を
上級官庁にお伺いを立てていたそうです。
禅寺です。
木曽義仲が巴御前に託した遺髪が納められています。
入場料一人300円です。
日本一広い石庭が見学できます。
これがそうです・・・・入り口から10秒で出口でした。

木曽義仲のお墓はどこですか?
と案内所の方に尋ねたら
「ここで受付をして、庭を見てから
境内にでて、歩いていけます」
と教えてもらいました。

しかし、なんとお墓は、境内の外にでて
普通の道路を経由して行くのでした。

しまった〜〜〜
木曽義仲の公廊所です。


 福島宿
福島宿の高札場です。
上の段地区の入り口近くに立っています。
奈良井宿に比べると、当時を醸し出す町並みは
上の段地区に残っているだけで、改築というよりも
立て替えたものばかりに見えました。

なかなか、古い町を保存するというのは難しいですね。
そしてなぜが、ここに☆印・・・
清明神社が!
坂を下った木曽川沿いに、足湯があります。
今日はこれまでずいぶん歩いていたので、バッチリ
疲労回復になりました。

いや〜〜極楽極楽

福島宿を後にして、更に国道19号線を南下し、景勝「寝覚の床」に着きました。
花崗岩の白い岩盤を木曽川の激流が、
長い年月をかけて削り取り出来たもので、とても幻想的な姿になったのです。

ここにはまた、龍宮城から、現世に戻った浦島太郎が、
帰るところを探してさまよううちに、たどり着いた場所で、
そこで岩の上に座り、毎日つりをしていた太郎が、
龍宮のお土産の玉手箱を開いた場所といわれる、
浦島太郎の伝説があり、寝覚めの床といわれる由来です。
寝覚めの床の岩の上には、「浦島堂」が立てられいて
岸から岩を乗り越えていくことができるそうです。


妻籠宿

2泊目の宿をとった妻籠宿です。
ただし、急遽決まった旅行のため
宿が取れたのは「大妻籠」と呼ばれる
少し奥に入った集落でした。

妻籠宿の高札所です。
到着したのは、既に夕方となっていたので、
当日は、夕食後にとばりを落とした妻籠宿を
歩いてみました。
まだあけている店がありました。
そこから漏れる光が、宝石のように輝いて見えました。


暗くなった宿場道を照らす灯り
この位置での写真は妻籠宿の定番です。
昼間同じ場所にて唐辛子が立っている風景です。
本陣のある通りには、建物と街道の間に庭があり
旅館が、立ち並んでいます。
先へ進みと、桝形の跡があります。
桝形とは、敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた
場所のことです。
この桝形は、奈良井宿や次に訪れる馬篭宿にもあります。
桝形を曲がって、坂を下ると
下嵯峨屋などがある通りです。

妻籠宿は明治になり鉄道ができると一気にさびれ貧乏のどんぞこ村になり
家の建替えもままならず・・・。それが江戸時代の街並みがそのまま保存されて
いるということで見直されて、日本で第一号の
「国の重要伝統的建造物群保存地区」に指定され
「売らない・貸さない・壊さない」を町の人たちが守り貴重な宿場町の保存に
成功して今日を迎えています。
下嵯峨屋です。
おばあさんが民芸品を作っていました。
郵便史料館です。
このポストは、当時のものを復元したもので
ちゃんと今も使っています。

この郵便局で葉書を購入、自分のうちへ手紙を書いています。

ちょうど、郵便配達の方が郵便を配り始めました。
でもチョット恥ずかしそうでした。
馬屋の内部です。
当時のままの店先で、民芸品を作っている店が
いくつもあります。
煙草屋さんです。
めちゃくちゃ懐かしい名前の煙草が売られていました。
八百屋さんがありました。
有名なのかな。多くの観光客も訪れていました。
山菜の種類が豊富で新鮮です。
取れたての野菜が沢山並べられ、僕たちは長芋と
干ししいたけを買いました。
このお店の二階には、本物の兜と、
かごが展示されていました。

一階で売られていたものは、手作りの家具で、
見ているだけで楽しいものばかりでした。
妻籠宿本陣です。ただし一度取り壊されているために、
当時の間取りのまま忠実に復元されたものです。

脇本陣共通のチケットを購入しました。

こちらが、脇本陣です。
屋号を「奥谷」といって代々林さんが勤めてきたものを
公開しています。
総檜造りで明治10年に建て替えられたものです。

とても興味深い物ばかり、説明も親切で良かったです。
上段の間といって、お殿様が泊まる部屋です。
お殿様専用のお風呂です。
お殿様専用の厠です。

馬篭宿

妻籠宿から車で30分ほどで
馬篭宿に到達しました。

高札所です。

昼近くになっていたので、観光客が
とても多く、混雑していました。


江戸から数えて42次目の宿です。
馬篭宿の多くは、坂です。
道は、石畳で整備されていましたが
余りにもきれい過ぎかな。映画のセットのように見えました。
島崎藤村が生まれた町としても有名です。

建物のほとんどは、民芸品などのお土産屋さんで
泊まれる所は、少なかったようです。
大きな水車が桝形の角にあります。
この突き当りが、直角に曲がっている桝形です。
ここで、昼食を予定していたのですが
お食事どころは、みんな蕎麦と五平餅
もう飽きてしまったということで、
中津川まで我慢しようということになりました。


馬篭宿から、落合宿までの間の石畳の道です。修復した道ですが、
当時のまま残っている区間もあわせると70mあります。
ちょうど左の唐辛子が立っている場所は、当時のままの状態です。
予定では、約2時間を使って踏破しようと計画していたのですが
お腹も減って、時間も押していたので、ほんの一部を歩いて終了。
津川宿に着きました。
これまでの宿のような町並みは既に無く、
残っている建物は、本陣があった所の筋向いの庄屋跡だけです。

近くに中仙道歴史資料館があり、そこで偶然古文書の先生に出会い
今朝解読したばかりという
水戸の天狗党と中津川藩の人との関係を示す
古文書を読んで説明してもらえました。
その古文書の内容が描かれた前田青頓の絵も飾られてました。

ここ、中津川庄屋屋敷跡は見学は出来ません。
落合宿です。本当は馬篭宿と中津川宿の間の
宿場なのですが来る途中で通り過ぎてしまったので、
中津川の資料館の方に道を聞いて、訪ねてみました。
やはりここも、現存している建物は本陣跡くらいです。
見学も出来ません。
帰り道に立ち寄った中央高速道の諏訪湖サービスエリアから
眺めた諏訪湖です。
今回の旅は、島崎藤村の「夜明け前」を読んで(途中でやめた)行ってみようと思ったのがきっかけでした。
これから、また読み始めれば、更に情景が伝わってくるかもしれません。
次はどこに行こうかな。

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