七年祭

 たくさん歩いて立ちんぼで見物したり、夜中の2時に起きたりして7年ぶりのお祭を楽しんだ報告です。

「三山七年祭」は、11月2日から3日にかけて船橋市三山の二宮神社で丑年と未年の7年毎に行われる大祭で、
船橋・千葉・習志野・八千代(旧千葉郡)4市の9つの神社の神輿が参加し、神揃場へ集合した後、二宮神社本殿に
大きな神輿ごと昇殿する勇壮な祭です。
参加する9神社の役割が、家族になぞらえて決まっています。
 この大祭のいわれは、文安二年(1445)、千葉氏一族の千葉康胤の妻が懐妊、十ヶ月過ぎても出産の兆しがないので、
二宮神社・馬加(子守)神社の神官に安産祈願の加持祈祷をさせたところ、無事男子が誕生したので安産のお礼の大祭を行ったのが始まりとされています。

神揃場に9神社からお神輿が集まってきました。そしてここから二宮神社(夫)に一基ずつ昇殿しに行きます。このお神輿は習志野市の菊田神社(叔父)です。
これは僕の地元の幕張の子守り神社(子守)です。提灯に自治会の1丁目から5丁目まで線の本数で表しているんです。↑
「は」の半纏は子安神社(妻)です。千葉市畑町からやって来ました。↑
右の女の子は今年7歳の女の子で写っていませんが男の子もいたんです。前回の時に生まれた子を男女ひとりずつこの神社は連れてくる役割だそうです。
左は「八」の半纏、船橋市古和釜町の八王子神社(次男)です。

お神輿は入ってきた時と二宮神社に出発する時に
何回ももんで景気をつけておひねりを桟敷席からたくさん
投げられて出て行きます。
桟敷席はひと月も前に売り切れになったそうです。
大原大宮神社(叔母)習志野市実籾にあります。
ここ神揃場に二宮神社についで近くにあります。
お神輿に巻いてあるさらしは後で切り分けみんなに
安産のお守りとして配るそうです。
赤い半纏は、八千代市高津にある高津比盗_社(娘)です。男の子がお化粧をして花笠を被っています。↑
神揃場は竹で柵が作られて担ぎ手以外は中には入れないんです。
ちょっと江戸時代の処刑場を覗いている雰囲気。
八千代市大和田萱田町の時平神社(長男)です。→
神揃場から出立する時には、このようにいろいろな人たちが先を歩きます。↓
全ての神輿が神揃場から二宮神社に出発しました。土の山が輿塚です。↓ここに到着した神輿を下ろしてあったんです。
11月3日未明〜早朝の「磯出式」の報告です。
「磯出式」とは千葉康胤の奥方が十月十日を過ぎても、子供が産まれる様子がなかった。そこで心配した康胤は、馬加神社(幕張)と、宮山(三山)神社の神主に安産のお祈りをさせた。その満願の夜に、「両神社の神を波の寄せる清い磯辺にしばらく移してまつれば、安産である」というお告げがあった。そこで、二つの神社の神輿を幕張の磯辺にまつると、その夜、海中から竜頭があがって馬加神社へ飛んできた。そして次日にに男の子が誕生したという。康胤は、とても喜んで、領地の村々におふれを出して、幕張の浜辺でお祭りをした。
 これを見て喜んだ康厚保は、幕張郷を馬加郷と変え、子守神社を建て、立派な神輿をつくらせた。その後、千葉家は一族が争い、お祭も消えてしまったが、今から四百年ほど前にまた復活し、二百六十年あまり前のお祭りでは馬加の磯に竹の垣を結い、二宮(三山)・子安(畑)・三代王(武石)・子守(幕張)・の神輿をまつった。この年から七年に一度の磯出のお祭りが行われるようになったという磯出式では、安産祈願の「産屋(うぶや)の神事」がおこなわれ、前回の七年祭の年に生まれた男女が、神前に供えられた蛤を交換しあったり、舁夫が榊を奪いあったりする古式豊かな神事です。
二宮神社の神輿が山車を引き連れて幕張までやって来ました。時間は午前2時頃それでも道路は物凄い人出。今夜はすごい霧です。
右は神事をする場所に入るところです。霧でみえませんがお神輿に榊がたくさんついてます。
幕張にやって来た神輿は、子守り神社・二宮神社・子安神社・三代王神社(産婆)の4基です。全てが揃ったのが3時半ごろ。
神主さんがお祓いをしているところです。
神事↓が終わると担ぎ手が一斉に榊の葉を争って奪い合います。そして皆に配るのです。
右下の写真がそのときにもらった榊の葉です。
安産のお守りです。どなたか必要な方は
ご連絡ください。ご利益バッチリ!
↓神輿がまた自分の神社に戻っていきます。奥のほうに薄く見えるのが二宮神社、手前が子安神社この夫婦の神輿は別れる前に
組み合って、いっしょにもまれます。一番の見せ所です。時間は午前4時過ぎですが熱気があふれてます。
一番最後に地元の子守神社の神輿が、神社まで多くの人と共に担がれていきました。もう時間は5時です。
僕たちは戻って、急いで布団に入りました。     おしまい
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